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小説版『適切な距離』 第七回(完結)

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7.

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5月3日

父に会いに行くことだけが、日記を書く楽しみになっている気がする。

大学は単調だ。高橋は広告代理店の内定を2つ取った。

お祝いに酒を飲んだよ。心から祝福できてしまったことがかえって落ち込んだよ。

だって僕は、就職活動すらしていないのに。

自分の将来に危機感が持てないんだ。

と、父に相談した。

今日は少しドライブをした。父の街を。

川沿いの道をゆっくり走った。

テニスコートで、小学生の大会が開かれていた。

父はまっすぐ前を見ながら、

「やりたいことが見つからない時は、じっとしているより動いた方がみつかるよ。」

と言った。父は僕に甘い。そう思う僕は、本当はしかられたいんだろうか。

「とりあえず、卒業も油断できない状況やから、それに専念してみる。」と言うと、

父は「うん。」と肯いた。

父の街は穏やかで、美しかった。

川沿いの道を行き、

ランニングをするおばさんや、ギターの練習をしているカップルなどとすれ違うと、

自分が卑屈になっていく気がする。

美しすぎて、鼻に付く。

僕は大分やつれているのだろうか。

父の横顔も穏やかだった。

「今週、また面接の受け方をレクチャーしてもらうねん。行きもしないくせに。」と言ってみた。

父は穏やかなまま、「付かなくていい嘘は付かない方がいいよ。」と言った。

「怒らへんの?」と聞くのはやめた。

負い目がある以上、父は父として僕と向き合えない一線があるのだ。

家に帰ったのは終電になってしまった。

母は既に寝ていた。静まり返った家を歩く足音が、とても耳ざわりだった。


***

5月5日

休み。回転寿司で済ます。

昼から礼司は父の元へ行った。

ドライブをするらしい。

短気で運転が下手だったので、不安。

帰宅した礼司は、自分も車を運転したいと言う。

楽しかったのだろう。

家に車があれば、買い物も随分楽になる。

免許は合宿に行けば1ヶ月ぐらいで取れるという。

就職活動が落ち着けば、それも良いかもしれない。


***

5月10日

母の日記が、以前の場所に戻っていた。

内容を追うと、父を無断で使用していた。

母にとって、父だけは天敵のようなものだと思っていたのに。

優しい父親なら、礼司にも必要なのだ。

というのが全てだ。個人的な感情より自分の日記の中の礼司を喜ばせたいと思っているらしい。

以前よりも、そういう母に嫌悪を抱かないのは、僕もまた自分の日記に依存しているのだろうか。

母の日記の中でも父は優しいようだった。

今日も父とドライブをした。

母の日記にあった、短気で運転が下手というのは、本当なんだろうか。

そう言われれば、ドライブ中、一度だけUターンをしたとき、父の運転は荒っぽい気がした。

なんだか、母と父親を共有したようで、妙な気分だ。

日記の向こう側が、繋がってしまう気がした。

母の部屋には、礼司のために買われたスーツがぶら下がっている。

それを見ても何事も無く、ああ礼司のスーツがあると思える。

母の日記から立ち上る礼司の気配を、いつのまにか受け入れている。

いずれこの部屋に、父のネクタイやらも置かれるのだろうか。

怖いようで、嬉しいようで、奇妙な感じだ。


***

5月27日

昨日、母が礼司のために2着目のスーツを買ってきた。

すでに礼司の存在を隠さなくなったように母は僕の見ている前で堂々とスーツをケースから出し、ネクタイの色を合わせたり、シャツの組み合わせを確かめたりしながら以前買っていたスーツの横にぶら下げた。

僕は何となく早朝から目が覚めて時間をもてあましていた。

母は泊まりの仕事だったので思いつきでスーツを着てみた。昨日買ってきた新しいほうを。

双子の弟用だけあって、サイズも丁度良かった。

そのまま大学の入学式以来仕舞いっぱなしだった革靴を見つけ出し、街を歩いてみた。

もう一着のスーツをケースに入れ、そのまま電車に乗る。

適当な金額で適当な駅を目指す。

特急車両の4人席が空いていた。

僕はそれに座り、向かいの座席にスーツケースを置いた。

窓の外を見る。それに飽きると向かいの座席を見る。

そこには礼司がいるような気がする。

僕と同じ顔で、僕よりもきちんとスーツを着こなす礼司が。

礼司は僕に、「いつも見守ってくれてありがとう」などと言う。

そういえば、礼司の中で僕は死んでいたんだった。

僕の中の父が、良き父に上書きされていくように、

実際の僕は母の日記の僕によって上書きされる。

礼司と向かい合い、会話をする。

父のことや、大学のことを。

主に礼司が話し、僕が相槌を打つ。

礼司と向かい合うとき、僕は亡霊になる。

「こうして一度、話してみたかったんだ。」などと言われると、

「僕もだよ。」などと返してしまう。

そしてそれが何だか馴染んでしまう。

本当は礼司が実在して、僕はただその近くを漂っているだけだったんだろうか。

シックスセンスのように、僕が亡霊であることを知らないのは僕だけなのかもしれない。

そういう事を考えて、終点まで乗った。

引き返す電車は人が多くて立ったままになったが、僕の横には自然と礼司が居た。

家に帰り、スーツを戻しても礼司の気配は消えず、

代わりに僕があるはずの無い仏壇へ帰らなくてはいけないのだろうか。

などと思った。


***

6月7日

母の日記の中で、父が家に招かれていた。

先を越されたようで、悔しかったが、

父が、遠慮がちに家に上がり、

酒に酔い、泣きながら謝罪するくだりを読んでいると僕も一安心する。

礼司は今度斉藤さんを紹介するらしい。

父は僕の仏壇に酒を注ぎ、深々と頭を下げて帰っていった。

母の描写する父の方がさすがにリアリティがあり、今更僕が書くよりも、

僕はただ仏壇の奥で見守っているのも悪くない気がした。

日記の中の家族が幸せになっていくのが、僕としても嬉しいような。

そういう気がしていた。


***

6月23日

当分、日記を書くのをやめていた。

面倒になったわけでは無く、自分で書かなくても良くなった。

母の日記の中で、父は息づいている。

母しか知らなかった父親の色々な部分、愛煙家だとか、しいたけが食べれないだとか、

そういう取るに足らない情報が肉付けされて、僕は読むだけで父と会っている気がした。

礼司は健康器具メーカーから内定をもらった。

お祝いを兼ねて、母、斎藤さん、礼司、そして父を招いて家で食事会を開いた。

僕は相変わらず仏壇に居る。

僕は本当に幽霊、もしくは守護霊のような気持ちで日記を眺めていた。

礼司の心配をしたり、父と母を見守っていたり日記の中の生活が楽しげで、

そこに傍観者として参加する事で、僕は満足だった。

今日は高橋と飲んだ。久しぶりだった。

亡霊では無い僕の久しぶりの日常だ。

高橋は、また熱く語る。

卒業前の最後の公演で高橋は演出を任されていた。

演技論を振りかざしやる気の無い役者を叱責する。

いつもと変わらない高橋が、ものすごく大人に見える。

懐かしいようで新鮮だ。僕が取り残されているだけなんだろうが。

高橋は、まだ内定の一つも取っていない僕を心配する。

僕は「選ばなかったらあるんやろうけどなあ。」などと、嘘を言う。

僕を励ます高橋を見て、初めて罪悪感のようなものがハッキリと感じた。

いつからか、嘘を付くときは礼司を借りることしていた。

礼司であればどう言うのかどう応えるのか。そう想像すれば速やかに嘘がつける。

僕は仏壇に帰り変わりに優等生の礼司が高橋と飲んでいる。

高橋は、同窓会の話題を持ちだした。

小学校の頃の同窓会があるのだ。

先週、案内状を高橋経由でもらった。

僕はまだ行くか行かないを決めていない。

高橋は副幹事のようなものを任されていた。

参加者集めに苦戦しているらしい。

「安東は?」と聞いた。

「ああ、来るよ。なんで?」と言う。

「昔好きやったからなあ。」と素直に言う。礼司ならおそらく、そう言う。

「それは知らんかったなあ。彼女も、参加者集めに手伝ってもらっててさ、この前、打ち合わせであったけど、すっごい美人になってたで。」

と高橋は言っていた。

僕は緊張や興奮を気付かれないようにそれとなく、「まあ、参加するよ。」としれっと言った。


***

7月12日

同窓会に行った。

参加者集めに苦労してると言っていた割には僕が会場に付く頃には広い居酒屋の2Fは人でごった返していた。

高橋は満足気に僕の横に来る。

そして僕の袖を引き、遠くの席を指差す。

安東が居た。あか抜けて、綺麗な大人の女性になっていた。

「後で、話し掛けにいこうや。」と高橋は不敵に笑う。

ほぼ出席者が揃った所で、高橋が乾杯の音頭を取る。

ビンゴゲームやら、学年の人気者だった者達の冗談やらで同窓会は盛り上がっていた。

僕はそれなりに参加者と話しながら、目の隅では安東を追っていた。

催し物が終わり、司会だった高橋が僕の横に来る。

既に出来あがっていて、顔が上気している。

高橋は自分のカバンから、卒業公演のチラシを出す。

そして身近にいる者達に渡していく。

僕にも付いて来いと目くばせして会場を歩く。安東のほうへ。

この男はどうしてこう色々と上手く立ちまわれるのだろうか。と尊敬する。

僕と仲良くしていてこの男は何が楽しいのだろう。不思議な男だ。

安東は少し酔っていた。高橋が話しかける。

参加者がいっぱい来てくれて良かったと二人でねぎらう。

高橋はチラシを見せる。興味深そうに安東は眺める。

見所などを解説しながら高橋は僕を見る。

お前も話し掛けろという合図のようだ。

しかし僕には話しかける話題が無かった。

高橋は僕と安東を二人にするように隣のテーブルへ移っていった。

安東の方が耐えかねて「雄一君も出るの?」と話し掛けてくれた。

僕は「いや出ないよ。」と短く答えて、「久しぶり。変わったね。」と言う。

「そう?みんな変わったよね。」と安東は言う。

そこで途切れる。会話が続かないのは僕が必要以上に緊張しているせいだ。

それではいけないと話しかける。

僕もこれには出ないけど前は芝居とかしてたんだよ。と言う。

安東は驚き「そうなんだ。」どういう芝居してたの?と言う。

「まあ、シェイクスピアとか。自分で書いた作品も上演したりしたよ。」

「自分でって、台本も書いたの?」

「うん。」

「凄い!どんな作品?」

「えっとね、まあ、現代劇なんだけど、、、」

と言う途中で会場から歓声が上がった。

高橋が皆の前に飛び出す。会場に先生が現れたのだ。

当時は怖かった体育の先生がすっかりおじいさんになっている。

皆は大きく盛り上がり、安東もそちらの方へ体を向けていた。

先生はさっそく高橋に挨拶を求められニコニコしながら、呼んでくれたことの感謝を述べる。

安東はすっかり僕を忘れてるようだ。体も完全に先生の方を向いていた。

上気した鎖骨が見えた。僕はそこに釘付けになる。

とっさにほくろを探してしまった。

そしてほくろがなかった事に僕はかなり動揺した。

今更になって、あの安東はこの安東とは違うのだと思い知ってしまった。

先生の挨拶が終わると、安東はカメラを持って先生に歩み寄っていった。

その時、渡していたチラシがテーブルから落ちる。

思わず、あっと声を上げる。

しかし安東は振り向かず先生の元へ行った。

僕は拾い上げたチラシが恥ずかしくなり、慌てて自分の席まで戻りカバンに慌てて押しこんだ。

くしゃくしゃになってしまった。

喫茶店で待っていたのは安東じゃ無い。

当たり前の事なのに、それを分かっていない自分が惨めだった。

僕は先生の前ではしゃいでいる安東と、今でも喫茶店で待っている安東のどちらに会うつもりでここに来たんだろうか。

僕はいつから、こんな気持ち悪い人間になったのだろう。

同窓会が終わり、更に酔い、テンションの上がった高橋は僕を強引に2次会へ連れていこうとする。

僕はとにかく帰りたかった。

しかし、高橋は強引にカラオケ店まで僕の腕を引く。

途中、安東を見つけ、また強引に2次会まで連れていく。

高橋は、安東に、「雄一は、小学校の頃、安東に憧れてたんやって。」と言う。

僕は惨めで泣きそうになる。どうしてこんなに居たたまれない気持ちになるのか分からなかったが、とにかく僕は家に帰りたかった。

安東はにこにこ笑って「全然知らなかったー。」と言う。

それを聞きつけた周りがはやしたて、帰るに帰れなくなる。

カラオケ店に着くと、当然のように高橋は、僕と高橋と安東を同じ部屋にした。

高橋はさっそく歌いだし、安東はにこにこと笑っている。

僕は話しかけることもせずに、高橋の歌う姿を眺めていた。

歌い終わった高橋は、次の曲を入れていない僕らに毒付きながら世間話をする。

安東は外大へ行っているそうだ。

高橋は更に内定の数が増えていた。

そして、就職の話になる。僕は冷や汗が出た。

これ以上、今日はもう自己嫌悪をしたくない。

高橋は数ある内定の中から、出版業界を選ぼうと思ってると言う。

安東も大手出版の内定を取っていた。

安東は僕に聞く。

「決まった?」

僕は黙ってしまう。礼司を呼んでいた。僕ではもうこの場を乗りきることは出来ない。

僕はもう亡霊として逃げ出したかった。しかし礼司は出てきてくれない。

礼司もまた今、同窓会に行っているのだろうか。母の日記で。

礼司なら高橋のように上手くこなしながら楽しんでいるだろうか。

せめてそれを読みたかった。今すぐにでも。

でも目の前の安東は「どうしたの?」と言う。

高橋が気を使って冗談を言う。

僕は仕方なく、

「自分が何をしたいかわからないんだ。」と言う。

安東が申し訳なさそうにする。

僕はつい、「まあ色々受けながら見つけようとは思うんだけど。」と言ってしまう。

しらけそうになるムードを振り払うように高橋は歌を歌う。

僕の好きなバンドの曲を入れ、僕にも歌えと言う。

僕はただ歌った。前向きな歌詞に心で毒付きながら。

間奏中、

同じ業界の話題で高橋と安東が盛り上がっていた。

続いて安東が歌い、その後高橋が歌い、僕は喉が痛いと辞退し、酒に酔ったふりでカラオケが終わるまで眠った。

目を閉じる間際、再び安東に目が行く。

そこには悲しげな顔でグラスを持て余す安東はおらず、楽しげで高橋を見ている安東が居た。

綺麗な顔をしているが、待ちわびていた安東では無い。

僕はやっぱり、喫茶店に居る安東に会いに来ていたのだ。

僕の中でいつの間にか、喫茶店で待つ女が存在してしまったのだ。

いつまでも来ない僕を待ちつづける、特徴的なホクロを持つ女が。

今まで、恋人と呼べるような女も居たがすぐに失った。

つまらない男だといつも僕は切り捨てられた。

僕は、僕を好きになってくれる女性が欲しかった。

僕の捨てるに捨てきれない煮えきらない願望を喫茶店の安東は代わりに受け持ってくれていたのだ。

来るはずの無い僕を僕の代わりに待っている。どこまでも一途に。どこかの片隅で。

なんて幼稚なんだろう。浅はかで気持ち悪い。

母の日記の中では、父と礼司が楽しそうに生きている。

彼らもきちんと生きているのだ。

出来そこないの僕と、子宮から出てきた毛や歯が生えた肉の塊の弟と、

コタツの天板を母に投げつけ肋骨を全て叩き折った父を、否定するために。

母も幼稚で切実にそう願っている。

最初から分かっていたのに、僕の家は、僕も、母も、全部終わっていたのだ。とっくに。

何を僕は信じようとしていたのだろう。

僕はどうして間に受けてしまっていたんだろう。

そのくせ、さっきまでかたくなに信じていたくせに、どうしてこんなにも脆く信じられなくなるのだろう。

安東が僕に興味無いからだろうか。高橋がうらやましいからだろうか。

僕は現実でも亡霊のようだ。

僕は寝たふりをしながら、泣いていた。

ばれないように寝返りを打って。

陽気な歌が聞こえていた。

現実は厳しいなあと思う。僕の思いどおりになんか何もならないなあと思う。

それならそれでちゃんとそう分かっていればよかったのに。

始発まで2次会は続いた。

寝ぼけた顔で皆それぞれ帰っていった。

母はすでに仕事へ出かけていた。

母の日記を読む。

案の定、同窓会を楽しみ、思い出話に花を咲かせる礼司と母が居た。

日記を捨てようと思った。僕のも母のも。

焼いてしまって、何も無かった事にしてやろうと思った。まずは僕のを。

日記を手に取り破こうとする。

年賀状が出てきた。日記に挟んでいたのだ。

未来の自分へ向けた僕からの手紙。

「10年後のぼくへ、10年後のぼくはまだ日記をかいていますか」

普通に日記を書いてれば良かった。僕はそれを望んでいたはずなのに。

破る前にこれまでの日記を読み返してみた。

全くどうしようも無い毎日だ。特に架空の父と会いだしてからは読んでられなくなる。

僕は日記帳を破いた。父に会いに行きだした日から。

簡単にゴミになってしまった僕の日常が悲しかった。

母の日記も破る前に読み返す。

礼司との生活。これを書く事で母は満たされていたんだろうか。

礼司は僕の代わりに母と上手くやっている。

虚しいと思いつつも、それにすがる母の気持ちが痛いように分かる。

4月12日の日記に目が止まった。

礼司がまだ2歳の頃。

私を殴ろうとする父の前に、立ちはだかって私を守ったことがあるのよと伝えた。それだけは知っていてほしいから。

礼司は覚えてないよと言いながら照れていた。


おぼろげだが何となく思い出す光景がある。

怒鳴る父親と泣く母親が居て、僕はその間に割って入った。

そう言えばそういう記憶がある。日記を読んだ時は思いださなかったが、確かにこれは事実だ。

僕の2歳の時の話だ。

母は嬉しかったのだろうか。

礼司とは、優しく育つはずだった僕なんだなと思う。

礼司を励ますように書かれていた、テストが良い点であるように。良い就職先が見つかるように。健康でいられるように。

読み返せば、母の日記はそう言う言葉ばかりある。

礼司の生活を充実させるように、やっきになっている。

母の日記を破るのはやめておいた。

これは、母のささやかな幸せで、希望なのだ。

ただ、そこに僕は登場できない。

この家には礼司が相応しく、僕の席は無い。

母の部屋にリクルートスーツがかかっている。

不気味ではなく、今はただ悲しくなった。

散らばった自分の日記を読み返した。

「そんな相手に一体何が話せるん。無理やで。もうあれとの関係は完全に終わってる。見てないんやもん。僕のこと。」

「雄一とお母さんが、そうなってしまったのは、お父さんのせいなのかもしれん。」

「だけど、お父さんに今出来ることは無いから、それは2人が何とかしないといかんのやと思う。」

「色々問題はあるんやろうけど、まずは、会話をした方がええな。」

「お父さんと話してることを、お母さんにも話してみたらええ。」

父が僕に言う、僕が言うべきだった言葉がある。

破られた日記を拾った。かろうじて残った数ページに今この日記を書いている。

日記を使いきろうと思った。

ここが最後のページ。

書き終えたら、もう日記を書くことも無い。

僕は家を出ようと思った。ここにいるべきでは無い。

母のためにも。僕のためにも。

僕に時間は残っているのだろうか。

明日、高橋にもう一度、面接の練習をしてもらおうと思う。

まだ少し、ページに余白が残っている。

最後に、礼司と父に、さよならを言おうと思ったが、

言葉が出てこなかった。

これ以上書くべきものが見つけられず、余白の部分だけポケットにしまった。

***

4月7日

残りの余白に。

実家から春物の服が届いた。

届いた事を報告するために、電話をかけた。

「届いたわ。」と言う。

上京して初めての電話だった。

「声暗いな。仕事、きついんか。」と母が言う。

「まだ一週間やから。わからんよ。」

「朝、遅刻したらあかんで。」

「せんよ。」

「風邪引かんように。」

母の声を聞くと無条件にいらだってくる。

僕は手短に切ろうとした。

「じゃあ。まあ、また。」

「ああ。無理せんように頑張りや。」

「うん。服、ありがとう。」

電話を切る。

実家から高速バスで9時間かかる。

知りあいも誰も居ない土地にいる。

900キロ離れてやっと、励ましと感謝を言えた。

どうしようも無い親子だなと思いつつ。

今度日記を書き始めるときは、もう少しましな日常になってることを祈って、

この日記帳を終わる。
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2012-02-25 : 小説版『適切な距離』 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

小説版『適切な距離』 第六回

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6.

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4月1日

曇り。日勤明け。

昼食に野菜を炒める。

午後から礼司と鑑賞会をする。砂の器。

犯人の男が、いつもいつも、悲しくて泣いてしまう。

礼司も、ピアノを演奏するシーンで泣いていた。

昔の俳優の方が、演技が上手いねと言う。

その通りだ。加藤剛は本当にハンサムだった。

礼司は映画のテーマである差別に対して落ち込んでいるようだった。

実際、私達も貧乏や片親で差別をされてきた。

礼司が小学校の頃に、授業参観の日、みんなの居てる所で、

横に座ってた女が、先生に向かって、礼司君はお父さんが居ないから横に座るのは嫌です。と言った。

言ったその女も、その女の母親も、悪気の無い顔をしていた。

この話をすると、礼司はいつも、お母さん恥ずかしい思いさせてごめんね。と言う。

強い子だ。

***

4月3日

日勤。礼司は斎藤さんを連れてきていた。

夜は煮魚。礼司は好物だと言う。知らなかった。

斎藤さんも好物だと言う。

食べ終わった食器を、斎藤さんと洗う。

礼司から薦められて砂の器を見たらしい。

泣きましたと言っていた。

ドラマもあるよと教えると、喜んでいた。

食後は三人で、カステラを食べる。

今度映画を観に行こうと礼司が誘う。

話が盛り上がり、結局今日は映画を観ず。

***

4月5日

準夜。起きると礼司がちょうど大学から帰ってきていた。

昼食は外で食べてきたらしい。

大事な話があるらしい。

父親からの手紙を見せられた。

久しぶりに顔が観たいという内容だった。

実は先週、父に会いに行ったらしい。

ショックでは無かった。

父は別人のように大人しくなっていると言う。

礼司にはどれくらい父の記憶があるのだろう。

また来週会いに行ってもいいかと言う。

礼司も20歳になったのだし、そういう判断は自分で決めなさい。と答えた。

やはり、父の事を知りたくなるのは当然なんだろう。

***

4月10日

日勤。礼司は夜、父と食べた。

帰ってくると、父の話をする。

ひたすら謝っていたらしい。

あの男がと思うと信じられないが。

自分が間違っていたと悔やんでいるそうだ。

礼司も大学の話などをしたらしい。

進路の話なども。

公務員を目指すことに後悔はないのだろうか。

私に気を使っているのかもしれない。

父親になら腹を割ってそういう話を出来るなら、会うのも悪くない気がする。

***

4月12日

日勤。

今日は寿司を食べに行った。

礼司は最近、父親の話をよくする。

すごく反省している。

一人で寂しそうだ。

今はとても優しい。といつも良い印象なことを強調している。

やはり、父親が恋しかったのだろうか。

昔の記憶は無いようだ。

私の腹を蹴り、顔を殴り、借金を重ねて逃げ出した。

そういう事を、忘れたならそれでもいい。

優しい父親なら、礼司に必要なのだ。

礼司がまだ2歳の頃。

私を殴ろうとする父の前に、立ちはだかって私を守ったことがあるのよと伝えた。それだけは知っていてほしいから。

礼司は覚えてないよと言いながら照れていた。

***

4月14日

準夜。礼司は外で食べるらしい。

仕事に出る前。

礼司は父親と電話していた。

就職について相談したらしい。

公務員になりたいと言っても、

やりたい事をやれよと言われたらしい。

僕のやりたい事が、公務員なのにと、笑っていた。

やっぱり同姓の親の方が気兼ね無く話せるようだ。

***

4月17日

日勤。夕食はオムライス。

礼司に薦められたパーフェクトワールドを観る。

良い映画だった。礼司の薦めるものに外れは無い。

礼司は父親に会いに行っていたようだ。

父親と会うようになって、楽しそうに見える。

寂しい気もするが、やっぱり必要な存在なのかもしれない。

父親の家からは、綺麗な桜が見えるらしい。

その下を散歩したと話す。

お母さん、今年は花見に行こうか。と嬉しそうだ。

どうせなら斎藤さんも誘いなさいと言うと、早速電話をかけていた。

彼女の話なんかも、父親に話しているのだろうか。

斎藤さんは、この家が母子家庭だと知っているのだろうか。

もし知らないのであれば、出来れば知って欲しくない。

礼司を傷つけたくない。

父親の話題が増えるのは、悪くないかもしれない。

***

4月21日

休み。花見に行く。

斎藤さんは酒に強く、礼司は早々に倒れた。

尻にしかれるかもしれない。

桜は綺麗に咲いていた。

久しぶりに花見なんてした。

礼司は桜を写メールに収め、父親に送信した。

父親の家の近くにも桜は咲いているらしい。

***

4月26日

日勤。お好み焼。

夕食後、礼司は真剣な顔で、いつか、父親を家に連れて来たいと言った。

やっぱり、もう20歳だけれど、子供には父親が必要なのだ。

今の父親が、礼司にとって必要な存在になれるかは分からないが、

礼司が必要だというなら、私はそれでいい。

連れて来たいというなら連れてくれば良いし、父親を許せというなら、許す。

斎藤さんと、もし結婚ということになれば、やはり片親というのは、不利になるだろうから、礼司が欲しいと思うものは全て与えてやりたい。

礼司は、父親に電話をしていた。

父親は別人のように優しくなったらしい。
私は礼司の言うことなら、何だって信じられるのだ。
2012-02-16 : 小説版『適切な距離』 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

小説版『適切な距離』 第五回

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5.

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4月3日

父の家は、随分遠かった。

電車を3回乗り継いで、駅から降りて電話をかける。

緊張で、何度もボタンを押し間違えた。

向こうも緊張していたのか、1回目のコールで出た。

「駅に付いたよ。」と言うと、

「分かった。今から行く。」と、思っていたより低い声で返ってきた。

それからどちらも何もしゃべらず、でも電話を切るタイミングでも無くて、

気まずい間を埋めようとして、「改札の前に居る。」と言おうとした瞬間。

「雄一。」と控えめに呼ぶ声がした。

目を上げると、そこに、父は立っていた。

なぜだか懐かしいような気がして、涙ぐみそうになる。

昔の父なんか覚えていないのに、でも、それでも父だと確信できた。

名前を呼ばれただけじゃなく、何となく、あれが父なんだと分かった。

父は、ぎこちなく歩いてきて、

「向こうに、車止めてるから。」と言い、手を差し伸べて来た。

手を繋ぐのは、あんまりだとやんわり拒否すると、

父も手を差し伸べたのは無意識だったらしく、照れて大笑いした。

携帯からも、小さく笑い声が聞こえてきて、僕と父は、まだ携帯を切っていない事に気が付き、今度は二人で少し笑った。

駅から少し歩く。さっきの余韻があるおかげで、沈黙したままでも別に気まずく無かった。

古臭い軽自動車が父の車だった。

僕は後部座席に乗りこんだ。

「狭くて、すまんな。」と父が言い、ついでのように、

「大きくなったな。」と付け足した。

僕は、この人が父親なのかと、やっと実感が追いついてきて、その言葉に妙に舞い上がってしまった。

父の家まで車で10分間。

たどたどしく話した内容は覚えていない。

結構田舎に住んでるんやね。とか、コンビニあんまり無いね。とか、

そう言えば今、コンビニでバイトしているとか、

何とか話す内容を探したけれど、上手くいかなかった。

父は古い木造のマンションに住んでいた。

1DKの質素な部屋だった。

僕は、床に置かれたビジネス雑誌に目を通しながら、父は、適当なテレビ番組を横目に徐々に会話も交わした。

小さい一人用のテーブルの上に、父は、僕の赤ちゃんの頃の写真を並べた。

父の煎れたコーヒーを飲みながら、僕はそれを恥ずかしがりながら見た。

写真は数枚しか無かった。

「お母さんは、一枚も持たせてくれなかったからなあ。」

「これだけは、何とか持って来たんや。」と父は言った。

離婚当時の話を聞こうかなと思ったが、何と言っていいか分からなかった。

「仕事は順調?」と代わりに聞くと、

父は優しい顔で僕の写真を見ながら、「まあなあ。順調やな。」と言った。

「雄一は?大学は楽しいか?」と聞かれて、僕は返事に困った。

「楽しいって感じじゃないけど、順調。」とだけ言い、就職活動のことは黙っていた。

「そうか。無理はするなよ。」と言って、父は笑った。

それから日が暮れるまで、父と僕は微妙な距離を保ちながらも、会話をした。

父は思っていたより老けていて、優しげだった。

僕はどう映ったんだろうか。

結局は、込み入った話なんて一つもしなかったけれど、何となく父の事が分かった。

帰りの駅までの車の中。

父はふいに「彼女とかはおるんか?」と聞いてきた。

いきなりな質問で、僕は視線を窓に向けて、答えをはぐらかした。

安東の事を思い出していた。小学生のでは無く、喫茶店で待つ方の。

特徴的なホクロが窓の上に浮かぶので、打ち消すように窓を開けた。

駅前だが、車通りは少ない。静かな街の音がした。

「また来るわ。」と車を降りる間際に言った。

「いつでも来てええよ。週末は家にいるから。」と父は嬉しそうだった。

「それじゃあまた、来週。」と言い、別れた。

父とは上手くやれそうだった。

家に帰ると、夕食がテーブルの上に出来ていた。

母は無言で食べていて、僕の分は、ラップがかけられていた。

僕は電子レンジで暖めながら、相変わらず会話の無い静けさで、先ほどの余韻が消えていくのを感じていた。

今日の母の日記には、斉藤と礼司と母の三人で楽しく夕食を取った事が書いてあり、覗いている僕まで惨めな気持ちになった。

父のことをもっと書きたいと思う。礼司や斎藤なんてものを打ち消すための完璧で優しい父を。

礼司はすでにこの家の中に気配すら感じさせている。

僕も父の事をもっと詳しく知らなければ。


***

4月10日

再び父の家に行った。

今日は夕食も一緒に食べた。

「ロクな店知らんくてなあ。」と父は詫びながら、

ファミリーレストランで食べた。

ふいに、「父親が居なくて、つらい思いしてきたか?」と父は切り出した。

僕は無かったと答えるべきか、迷ったが、正直に話した。

「小学校の頃は、露骨に先生に言われたりしたなあ。父親が居ないから、しつけが出来てないんだとか。そのたびにオカンはブチ切れてたな。僕は別にそこまで嫌とも思わなかったけど。」

「まあ、オカンが切れれば切れるほど、先生は、ほらなって顔で僕を見たからなあ。そこだけ腹が立ったな。」

「見返せ。見返せ。ってオカンはそればかりやったからなあ。小学校とか高校まで。でもまあ、大学からは言わなくなったな。だって、見返すような能力無いって分かったんやろうなあ。」

父は、僕の話を黙って聞いていた。

僕自身、こんな話を誰にもしたことが無かったが、父相手だと不思議と話せた。

話し終わると、恥ずかしくなってドリンクバーへ立った。

席に戻ると、父は少し泣いていたようだった。

「本当に苦労をかけてしまった。雄一にも、お母さんにも。」と深く頭を下げた。

僕は聞きたかった事を、思い切って聞いてみた。

「どうして、オカンを殴ったん?離婚の原因ってそれなんやろ?」

父は涙を拭いて、真っ直ぐ僕を見ながら話した。

「全部悪いのはお父さんなんや。」

「お父さんの稼ぎが少なかったからお母さんにも働かせてしまってな、家事もさせてしまって、お母さん、大変やったからなあ。それでも弱音を言う人やないから、溜め込んでしまったんやろうなあ。それで、いつからか、お父さんとギクシャクしてもうてな。」

「お父さんに器量が無かったから、喧嘩もようするようになってきて。」

「それで、つい、カッとやり返してしまってな。本当に申し訳なかった。」

「やり返したって?」

「ああ、いや、やり返したというかな。まあ、お父さんが加減付けずに手を出したんや。」

「オカンもやったんやろ?ヒステリーやし。むしろ、オカンの方がやってたんやないん。」

「いや、男が女に手を出したらあかんよ。絶対にな。」

「肋骨が折れたとか、顔の形変わったとか、本当なん?今話してるお父さんが、そんな事するとは思えないんや。オカンは何かあったら、ボロボロに殴られたとかそう言うけど、それは本当なん?」

父はそれには答えなかった。

「本当は、そこまでじゃないん?」

父は、しばらく黙った後、うつむいて、「手を出した、お父さんが全部悪いんや。お母さんは何にも悪くないよ。」と言った。

それだけで分かった。母の方が嘘を付いていたのだ。そこまで殴られてはいない。もしそこまでしていたなら、今の父は、そう認めるはずだろう。僕に許して欲しいと言うんなら全て打ち明けられるはずだ。そして母をかばって、「そうだ。お父さんが殴ってお母さんは肋骨が折れた。」とも言えないのは、息子である僕にそういう人間だと思われたくないのだ。

だからこそ、どちらとも言えないでいる。たぶん、そうなのだろう。

「オカンのヒステリーで、僕も結構ひどい目にあってるよ。」

「宿題やらなかったりとか、ご飯残したりだとか、そういう理由だけで、ブチ切れ。めちゃくちゃに暴れて。小学校から高校までずっと。」

「虐待やで。あんなん。力で負けると思ってからは、ネチネチ言うようになって。」

愚痴る僕を制して父は言った。

「責めたらあかんよ。お母さんはな、必死なんやろう。子育ても仕事も全部やらないとあかんからな。大変なんや。」

「分かってるよ。ある程度は。でもまあ、一生許せないってのもあるよ。ストレスのはけ口みたいな感じだったし。」

結局、前回のように和やかな話にはならずに、終始、母への恨みを話していたような気がする。

父はその度に、母をかばい、僕に許すように言っていた。

父だって、母にむちゃくちゃ言われたはずなのだ。人としての尊厳を否定するような。

実際、僕が言われたような、生まなければ良かっただとか、お前が居れば不幸になるだとか、そういう事よりももっと酷い事を受けてきたはずなのだ。それでも、父は許せと言う。父は、母を許しているのだ。そして、許してもらいたがっている。父は頑なだった。

ファミレスで別れ、家まで帰る。

母は居間でテレビを見ていた。

母の日記を読もうとするが、日記帳が無かった。

少し辺りを探してみたが見当たらない。

今さらになって、隠したのだろうか。

馬鹿らしくなってやめたんだろうか。

僕の日記を覗くのもやめるだろうか。絶対にそれは無いだろう。

どうせ、僕に見せたくないような日記を書いているのだ。

例えば父を否定するようなくだらない出来事を。

構わない。僕だって父に否定させるのだ。母を。

こうなった原因が母にあると何としても優しい父に認めさせたかった。


***

4月17日

今週も父の家に行った。

気恥ずかしいような空気はほとんど無く、お互いざっくばらんに近況を話した。

あいにくの雨だったので、どこにも出かけず、部屋で話し込んだ。

高橋と居ても、一方的に相手が話すのを聞くだけなのに、

父といると、不思議と僕も饒舌になる。

新学年が始まった大学の事。4回生にもなって単位が心細い僕は、1コマ目から授業がある日が2日もある。まだ語学の単位も危ない。そういう愚痴を、父は嬉しそうに聞く。そして父親として厳しく、僕を激励する。

高校までの母は、勉強のことに関しては、とにかく干渉して来た。数万もする自宅学習のツールや、塾を無理やり強要し、監視していた。僕が逃げ出すとヒステリーを起こし、暴れまわっていた。今では全くの無干渉だ。父はそういう母の行為も、自分の時間を削って働いて、何とか雄一のためになるようにと頑張ったんだとかばう。僕は、あれは自己満足だと言うと、父は悲しい顔をした。

僕は思い切って、今の母と僕の関係を父に相談してみた。

会話はほとんど無く、将来に関しての話もした事が無いと。

そして、日記の事も話した。僕の日記を隠れて読んでいること。

自分の日記では、死んだ弟と嘘ばかりの生活を書いて、僕を殺していること。

父は複雑な顔をして、慎重に言葉を選んでいた。

「雄一とお母さんが、そうなってしまったのは、お父さんのせいなのかもしれん。」

「だけど、お父さんに今出来ることは無いから、それは2人が何とかしないといかんのやと思う。」

「色々問題はあるんやろうけど、まずは、会話をした方がええな。」

「お父さんと話してることを、お母さんにも話してみたらええ。」

「お父さんのせいやないよ。」

「昔は話もしてたんやで。ほとんど話さなくなったのは、僕が大学入ってからかな。いや、第一希望のとこが落ちて、すべり止めのすべり止めしか受からなかった時からかな。明確にそっから変わった。」

「それまでは、何をするにも、良い大学に行け。将来のために今頑張れ。つらいのは今だけや。とか、こっちがノイローゼになるくらい言ってきたけど、しょぼい大学に受かった途端に、もう何も言わないもん。公務員になれとか、頼んでも無い資料をわんさか取り寄せてたくせに、何も言ってこない。見きりを付けたんやで。」

「こいつは、無理やったんやなって。それで気が付いたら僕やなくて、礼司や。礼司に期待しとるねん。」

「ひどくない?僕、知らない間に死んでたんやで。産まれなかったことにされてるんやで。」

「そんな相手に一体何が話せるん。無理やで。もうあれとの関係は完全に終わってる。見てないんやもん。僕のこと。」

「それは、ひどいな。そうなってしまうのは間違っていると思う。」

「そうやな。でもまあ、僕も直接は言わないよ。やめろとか。逆にそれくらいしか喜びがないんなら、書けよと思うけどね。惨めやわ。ほんま。」

「やり直したいとは思わへんのか?」

「もう無理やな。」

「お父さんが居てくれたらいいと思うよ。お父さんの元で暮らしたいと思う。」

「正直、あれを親と思うのは無理やで。」

「自分勝手で、ヒステリーで、被害者意識が強くて、僕からお父さんを奪って、監視して、僕を殺して。」

「とても、一緒に暮らしてはいかれへんよ。」

父は何も言わなかった。言えなかったのか。

「すまん。」とつぶやいたあと、自分を責めるように、押し黙っていた。

「お父さんは優しいな。絶対オカンをかばうんやな。」

「かばってるんじゃないよ。お父さんが悪いんや。全部。」

「そんな事ないよ。全部なんて。背負い込まんでや。」

「ごめんな。つらい思いさせて。」

何を言っても父を責める気がして、それ以上は何も言えなかった。

父も、うつむいたまま、何も話さなかった。

こんなはずでは無いのに。僕はただ、全て悪いのは母だと言ってほしいのに、父はあくまで頑なに首を振る。

父の部屋から大きな桜が見えた。

良い散歩日和だ。それが余計に悲しかった。

駅に着き、僕は無言で車を降りた。

父はなかなか車を発車させず、僕も歩き出さなかった。

しばらくして、運転席の窓ガラスが開き、

「いつか、雄一の家に行けたらいいなと思ってる。」と言った。

「うん。ええよ。いつでも。」

「お父さんに出来ることがあったら、何でもするから。」

「うん。ありがとう。」

「こっちこそ。ありがとうな。」

「うん、じゃあ、またね。」

「ああ。またな。」

父はゆっくりと遠ざかっていった。

帰宅する。母は夜勤なので居なかった。

歯がゆかった。

僕が欲しかったのは完璧に優しい父であり、その父を追い出した母の汚い姿なのに、優しい父であればあるほど、どう話しても父が責任を負おうとしてしまう。

おかしな話だ。自分で作り出したくせに、自分の思いどおりにならない。

ここ最近の日記を読み返した。父に会いに行った日から。

確かに僕は父と会っていたような気がする。

それが怖くもあり、不思議と嬉しかった。

母も、こういう風に礼司にハマってしまったのだろうか。

頭の中に今日の帰り際の父の顔が浮かんだ。

優しそうな顔。古く地味な車。名前の知らない駅前の景色。

それらがはっきりと浮かんだ。確実なリアリティを持って。

2歳で去った本当の父親の顔を、僕は覚えてないのに。

恐ろしくは無かった。無性に泣きたくなった。

こんな父親であれば、きっと最後まで母をかばうのだろう。

母親の言い分まで理解し、それでも自分が身を引いて、責任を背負う。

それが父親なんだろう。

来週、また父に会いに行ってしまうだろう。
もはや母を否定したいのではなく、会ってまた話しがしたいから。
2012-01-29 : 小説版『適切な距離』 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

小説版『適切な距離』 第四回

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4.

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1月21日

母は僕に話しかけなかった。
朝仕事に行ったのを見計らって母の部屋に行き、日記を見た。

呑気に、

礼司が面白いと言っていた洋画を借りてみたが、
あまり面白くなかった。
自分が勧めた松本清張の小説は面白い面白いと言う。

などと書いてあった。
これは僕が先週借りていた、グローネンバーグの映画の事だろうか。
松本清張の小説なんて一冊も読んだことが無い。
他愛も無い日記だけに余計にうすら寒い。
僕の日記に混ぜた母当てのメッセージを読んでないわけは無かった。
日記を入れていた書類ケースの中身は綺麗に整理しなおされ、くしゃくしゃにした母の写真は綺麗に伸ばされて、今日の日記が書かれた場所に挟まれていたのだ。それらをあえて見せて挑発している。

僕も無視して今日も日記を書く。
しかし、いざ見られているとなると書きにくくもなる。
母のようにあんなに流暢に妄想が書けるのは凄い。

今日はバイトに行きいつもの常連に会ったぐらいだ。
ヤンキーに彼女が出来たようで、同じような黒のスウェットを着た同じような金髪の女が同じような姿勢で並んで立ち読みをしていた。
それぐらいだった。特に変化も無く。
来週からテストだ。そろそろ勉強しなくてはいけない。
じきに礼司も勉強をし出したりするんだろう。
恐ろしい。


***

1月28日

随分日が空いてしまった。
毎日テストだ。嫌になる。
イタリア語の問題が思いのほか解けた。
来週の英語さえ乗り越えれば4回生には上がれるだろう。
母は毎日日記を書いていた。
日記の中の礼司はテストを受けていない。というより、テストという記述が一切無かった。
母は大学を出ていない。きっと大学のテストというのが分からないのだろう。
礼司は大学から帰ると母に面白い映画を進め、晩酌に付きあい飲みなれない酒で顔が赤くなっていたりする。
ある日は自分では背の届かない台所の上の扉を開けて、母の好物の餅を取りだしてあげて一緒に焼いて食べていた。

テストの事を詳しく書けば、きっと礼司は夜遅くまで勉強し帰ってくるなりテストの山が当たったと大喜びで報告した。とかそういう日記を書くんだろうか。
実際の母は僕に背を向けてテレビを見ながらご飯を食べている。

無表情な顔でビールを飲み、僕がチャンネルを変えると鼻で短くため息を吐く。無言。

***

2月1日

テスト最終日を乗り越えた。とりあえず進級は問題無いはずだ。
久しぶりに高橋と晩飯を食った。テストは余裕だったらしい。
これで来年はほぼ授業も無く就職活動に専念できると得意げに話していた。
うらやましい限りだ。僕は来年もほぼ毎日大学に行かなければならない。専念する事も無い僕にはちょうどいいスケジュールなのかもしれないが。

テスト終わりの祝いに酒も飲んだ。
隠れ居酒屋だとか何とかへ、高橋に連れて行かれた。
天井が低い店内をぐるぐると案内され和室に入る。向かいの高橋の顔がぼんやりとするぐらい店内は薄暗い。
BGMもかかっていない静かな店だった。こういう小洒落た店を知っているとは意外だ。

最初は近況報告を互いにする。
テストの出来だとか、何か変わった事なかったかなど。
母のことはもちろん黙っていた。
その内、酒が回りだした高橋が、芝居の話を始める。
年明けからの稽古で、ようやく手応えを掴んだらしい。
僕はその芝居に参加しないので、変わりに大量のレポートを書かされる。まだ全く手を付けていない。頭が痛くなる。
高橋に、4回生になってからの予定を聞かれる。
特に何も無いとも言えず、とっさにインターンシップに興味があるなどと言う。
高橋は既にそれを利用して、不動産屋で働いていた。
僕はまた適当に相槌を打って、高橋からアドバイスをもらう。行ったふりをするために。
もう、何のための嘘なのかがわからず、自分でも馬鹿らしくなってくる。

帰宅。どっと疲れたが、とりあえず母の日記を読む。
また映画の話だ。ここ数日そればっかりだ。
礼司はけなげに毎日おすすめの映画を母に教え、
母からすすめられた映画を絶賛する。
そして二人で餅を食べる。最近ほぼ毎日、餅を食べると日記に書かれている。
ネタ切れなんだろうか。
今度二人で映画館まで行く!と、感嘆符付きで日記は締められていた。
馬鹿らしくならないのだろうか。この人は。


***

2月6日
特に何も無い。そろそろ溜まったレポートに手を付けなくては。
母は本当に映画を見に行ったようだ。日記に内容のことが詳しく書いてある。日記の中では、礼司よりも先に犯人が分かった母の得意げな描写があるが、一人で行ったのだろうか。こんなサスペンス映画を。
母に友人がいるかを、全く知らない。母の日記にも、そんな人は出てこない。

餅を食べたとまた書いてあったので、
何かあるのだろうかと、台所の上にある引出しを開けてみた。
餅は未開封のままあった。そういえば正月、テーブルの上に置いていたのを、僕がここにしまったかもしれない。

母の身長ではここに届かない。
これを僕に言うために、しつこく日記に書いていたのだろうか。
踏み台くらい自分で買ってくればいいのに。
一つ焼いて、いちいち戻すのも面倒なので、餅はオーブンの横に置いておいた。
母は帰宅し、何も言わずに餅を焼いた。
無言で背を向け、食べている。
気味が悪い。直接言えよ。日記で遠まわしに言うことか。
読んでいる事は分かっているぞというアピールなんだろうか。
礼司に没頭しといてくれ。

***

2月13日
レポートが間に合いそうに無い。バイト先でも書いている。
バイト中の方がはかどる。ようは、レポートより、バイトのほうが苦痛なのだ。

早朝に帰宅。母はすでに仕事に行った。
昨日は母の誕生日だったらしい。日記を読むまで知らなかった。
忘れてたわけじゃなく、初めて知った。
日記を読みに母の部屋に入ると、見なれないコートがタンスに掛けてある。中年が着るには若々しい、腰のところがくびれた形だった。

日記には、礼司と二人で、フランス料理のコースを食べ、
生まれ年のワインを買って帰り、そしてコートを二人で買いに行った。
と書いてあった。

息子と母という関係を少し超えている気がして、日記を読み返した。
映画に行ったりだとか、外食に行ったりだとか、誕生日を二人で祝ったりだとか、母の日常はそれなりに賑やかだ。だけど、登場人物は母と礼司だけ。どの日記にも礼司と何かをしたと書いてある。毎日。毎日。
気持ち悪くなってきた。
日記をめくる弾みで、手帳にかかったカバーが外れた。
赤いカバーと手帳の間に小さな冊子が隠れてあり、
その拍子には母子手帳という文字と、礼司という文字が書いてあった。
僕は思わず叫んだ。
異常だろ。
育ててるんだろうか。礼司を。そういう気持ちなんだろうか。
歪んでる。とても。深く。

母の日記では無く、これは、礼司の成長記録なのだ。
だから、礼司以外の他人は出てこない。

一呼吸置いて、部屋を見渡す。
真新しい小説やビデオが、所々にある。
今までも、僕が日記を書き始める前も、
こうやって密かに、礼司との生活のネタを探していたんだろうか。
タンスに下がった真新しいコートをもう一度見た。
いくらぐらいするんだろうか。安くは無いだろう。
本来なら、父親や職場の同僚や友人とすることを全て礼司に置き換えている。
この部屋にあるものから、礼司の気配が充満していた。
それが怖かった。
日記だけの遊びじゃなく、実際に母は礼司と暮らしている。
二人で仲良くコートを選んでいる様子が、ありありと浮かぶ。
僕にそっくりな顔で、母も嬉しそうで。

誕生日の日記は、こう締められていた。

礼司は、また仏間にワインを持っていった。
本当なら一緒にお酒を飲めたのにね。と悲しく言う。

そうだ。礼司の他に、登場人物が居た。
僕だ。そして僕は死んでいる。
いつか、僕を殺す気なんじゃないんだろうか。
怒りと恐怖で、思わずコートを掴んで足元に叩きつけた。
引き裂いてやろうかと思ったが、礼司の視線を感じたのでやめた。

***

2月18日

ちょっとした事で母と口論になった。
母の日記で、礼司が線香を上げていた。
僕には耐えられない。

***

2月21日

レポート終了。今日からはやっと暇になる。
映画でも観に行きたいが、礼司が気になって行けない。
母の日記の礼司は、テストで非常に好成績を取っていた。
僕とは真逆だ。

***

3月2日

夢を見た。
カッコウの夢だ。同じ顔をした僕と礼司がカッコウの巣にいた。
そこへ安東がやってくる。えさをくわえて。
安東の餌を僕と礼司で取りあうが、母親が僕を摘まみ上げて地面に叩きつける。

夢から覚めて、お告げかもしれないと、久しぶりにメールをチェックした。
安東からは届いていなかった。
どこかの喫茶店で、まだ僕を待っているのだろうか。
そう言えばと、母の日記を読み返す。
礼司に彼女は居なかった。
おそらく、そう言うことは書かないんじゃないかと思う。
礼司は友達と飲みに行ったりはしているが、誰と、どこで、という詳細は書かれない。
当たり前だ。これは母子手帳なのだ。
母から見た息子の記録だ。
だから、母と居ない時の息子の事は書けない。
礼司は彼女が作れないのだ。泊まりがけで遊びに行くような親友も。
それがとても嬉しかった。ざまあみろだ。
僕の日常は盗めても、安東や高橋は盗めない。

***

3月12日

久しぶりに。
でも特に書くことが無い。
日記を書くこと自体が、母の協力をしているようで嫌なのだ。
母の日記では、相変わらず礼司とあれを観たこれを観たと映画談義ばかりだ。

***

3月19日

バイトのシフトを一つ増やした。
入ったことの無い曜日なので、いくらか変化を期待したが、
やっぱり常連は変わらずだった。
そう言えば、ヤンキーの姿がマトモになっている。ピアスを辞めたようだし、携帯のジャラジャラしたストラップも無い。
たまに一緒に来た彼女の姿も随分と見ていない。
毎日見ていると、些細な変化に目が止まるもんだ。
向こうから見た僕は、何か変わっていることがあるのだろうか。

母の日記を読む。そういえばこれも毎日見ている。
なのに礼司は全然変化しない。退屈で短い。
それはつまり僕も変化の無い、停滞した毎日なんだろうか。複雑だ。

***

3月21日

安東を取られた。
母の日記に、礼司に彼女が出来たと書いてあり、
夕食を三人で食べていた。
名前はわざとらしくも、斉藤と言うらしい。
小学校からの同級生だそうだ。

***

3月24日

斉藤がまた来ていた。
三人で映画を観ていた。
登場人物が増えようが、やってることは変わらないじゃないか。
くだらない。

***

3月27日

斉藤がやって来た。
食事を食べて、3人で就職活動の話をしていた。
斉藤は出版業界に行きたいだとか勝手に書いてある。

喫茶店で待つ、特徴的なホクロをした安東を、母は殺したのだ。
勝手な情報で書き変えようとしている。
非常に腹が立つ。自分でも驚くほどに。
勝手に日記を覗かれて、勝手に僕の小さな喜びだった安東まで盗まれて、挙句には僕は死んだもの扱いだ。

いっそ日記を破り捨ててやろうかと思ったが、やめた。
そっちがその気なら、僕は僕で、お前を否定してやる。

そのための素晴らしい方法を考え付いた。

***

4月1日

高橋とバッティングセンターへ行く。
思いっきりフルスイングして、腰を痛めてしまった。
高橋に散々馬鹿にされながら家に帰ると、僕宛に一通の手紙があった。
差し出し人には、懐かしい父の名前があった。
僕は震える手で中身を読む。
そこには、とても綺麗な字で、

「離婚のとき、お前を引き取れずに申し分けなかった。
何も持たずに家を出たから、養育費もろくに払ってやれなかった。
今、やっと人並みの暮らしができるようになって、
もし許されるなら、お前の顔が見たい。 」

と、離婚後の父の後悔と、謝罪が6枚も綴られていた。
最後の便箋には、震える文字で、

「もし、私を許してくれるなら」

と、現在の父の住所であるだろう内容が書かれていて、
電話番号と、携帯のメールアドレスも書かれていた。

僕は父を恨んではいない。
確かに何度も母に暴力を振るっていたらしいが、
僕にはその記憶が無い。物心付く前の話なのだ。
だいたい、父の顔もよく思い出せない。
そして、そんな酷い父だったら、今更になってこんな手紙を送ってくるだろうか。
暴力を振るわれただとか、お前も酷い目にあわせれただとか、それらは全て母が勝手に言った事だ。
妄想の子供を育てるあいつの言うことがまともなはずは無い。
母が本当のことを言っていたのか、それともそれも嘘で父を悪者に仕立て上げていたのか、僕はそれを確かめたかった。
だから僕は父に会いに行こうと思う。
さっそく、今週末にでも。
2012-01-17 : 小説版『適切な距離』 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

小説版『適切な距離』 第三回

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3.

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1月20日

朝起きて、母親が居ないことを確認してから糞野郎と叫んでみる。
バイト中もイライラしていた。
迷っていた。日記に。
大してこだわることでも無かったはずだけど、見られているからやめる。捨てる。というのも何だか腹が立つ。
盗み見してることを直接問い詰めるというのも違う。
そんな日記ぐらいで。とか偶然ノートを開いただけだとかはぐらかすだろう。
気持ち悪い。最悪。

普段は全く干渉してこないくせにコソコソとこういう事をする。
息子が風俗に行っただとかそういうのを知ってどうするんだ。
就職活動してるっていう嘘も知ってて何も言わないつもりなんだろうか。
昔の日記を自分の部屋に移動させたのも読むためだったんだろうか。

私の部屋にある。と言ったあの無表情の顔が、何度も浮かんで吐き気がする。
とりあえず小学生の頃の日記は取り返す。あいつの手元にあることが絶対に許せない。

久しぶりに母の部屋に入った。
日の差さない和室だ。
片付いているというより何にも無い。
押し入れを開ける。
中は3段に仕切られていて、3段目には病院の書類やら化粧道具。2段目は布団類。1段目は段ボールやらがある。
とりあえず3段目を見てみるがそれらしい物は無かった。
1段目までは高いので、書類入れのケースを取りだしてそれを足場にして探す。
隅の方に日記帳はあった。
当時の教科書類はほとんど捨てられたようだ。
日記帳も3冊しか無く、あとは中学、高校の卒業アルバムと卒業証書しか無かった。
奥まったところにあったので、取りだそうとしてバランスを崩し派手に書類入れのケースから落ちた。
日記もアルバムも散乱し、ケースもひっくり返り、中のものが散らばった。
これも母親のせいだと思い、舌打ちしながら適当にしまう。
写真が一枚落ちていた。まだ若い頃の母だった。
机の前に座り看護婦の格好をしている。
とっさに握りつぶした。復讐のつもりで握りつぶしたままケースに戻した。
散らばった書類の中に一冊のノートがあった。
赤い表紙にダイアリーと書いてある。
僕が使っていたものじゃない。
母のだ。
とりあえず開いてみた。
昨日の日付の日記が書いてあった。

”礼司とリクルートスーツを買いに行く。
流行は濃紺だと店員が言うが、礼司は一番地味で一番安いのを買うと言った。
せっかくなので高級なものを着させてやりたがったが、リクルートより決まったらまた新しくスーツを買い直す事になるから
そっちの方を奮発してやろうと思う。”

礼司というのは、僕の双子の弟の名前だ。
心臓がぐっと詰まって目が眩んだ。

弟は、死産だった。
畸形嚢腫という肉の塊で産まれたのだ。
母がそう言っていたのを覚えている。
「お前の産まれた後に、髪の毛やら爪やらが小さい団子みたいなのの中に詰まってたんや。取り上げた医者もびっくりしてた。DNAが間違ってしまって内臓も髪の毛も歯もバラバラになって生まれたんや。それがお前の弟やったんや」と、僕が小学校の頃に何度も泣きながら話していた。

母は酒を飲むとそういう暗い話をよく繰り返した。
離婚した父親に殴られた話だとか、裁判でもめた話だとか。毎回泣き声のふるえた声でうらみがましく。
人の泣き声というのはどうしてあんなに不快なんだろうか。
話の内容より母親の身の上に同情するよりまずあの震える泣き声でイライラしてしまう。
子供ながらにさすがにそれは表情に出さないようにしていたが、多分伝わっていたのだろうか母はいつ頃か身の上のことも、昔のことも話さなくなった。

どうして礼司なんて名前が母の日記にあるのだろう。
死産してから名前を付けたのだ。あまりにも可哀想だからと。
母は産婦人科に居たこともあったので死産やら先天的な奇形児やらをよく診ていた。
産んだ女の中には、父方の親に怒られるだとか恥ずかしいだとかでロクに悲しんでやることもしない者も少なくないらしい。
引取りを拒否する者もいたとか。
なので、せめて名前くらいは自分で付けてやろうと思ったと言っていた。

僕は恐る恐る母の日記を読み返していった。
礼司という名前は頻繁に出てくる。
僕と同じ大学三年生で、就職活動をしながら家事を手伝い買い物にも付きあい友人との長電話を母にとがめられたりしているようだ。
僕の名前は一向に出てこない。
誰の日記なんだ?どうしてこんなありもしない話をと、心臓がまた詰まる。
そして去年の、10月30日の日記だった。
それは僕の誕生日だ。そして礼司の誕生日でもある。
実際のその日は、学科内で打った芝居の本番最終日で僕は高橋と大学の同期達で芝居の打ち上げに便乗して祝ってもらった。
朝まで飲んで家には帰らなかったはずだ。
日記の中では礼司と母は高級なワインを飲んでいた。20歳の誕生日のお祝いに。
そして礼司が友達から貰ったケーキを二人で分けて食べたと書いてあった。
その日記の最後に、
礼司は仏間にワインを持っていき、雄一にも飲ませてやるとグラスに注いだと書いてあった。

僕は叫んで日記を放りだしたくなった。
僕は死んでいる。母の日記の中で。
何だか全てを了解してしまった。
母は、礼司と暮らしているのだ。
僕に無関心なのは死んだ存在だからだ。
怖かった。
礼司は日記の中で、すごく素直で親思いの子だ。
そんな日記、いや妄想を書いている母。
僕が就活を行ってるように見せかけていることも知りつつ、バイトの金をほとんど風俗につぎ込んでるのにも気づきつつ、母は何も言わない。
黙って日記を盗み見ていたのだ。
大学三年生の生活を調べるために。
僕に興味があるのではなく大学生の生活が知りたかっただけなのだ。
それに礼司を当てはめて日記の中で暮らしている。
怖かった。いつからそんなことを続けているのだろう。
ケースをもう一度ひっくり返して探してみたが、日記帳はその一冊だけで去年の9月から始まっていた。

僕の家族は終わっている。
今日、確信した。
会話が無いとか、嘘を付いてるとか、そういうレベルでは無く、僕と母の間には世界ごと歪んで埋まらない溝が走っている。

また、どうせこれも読んでいるんだろ。
僕がわざわざ、お前の日記を読んだことまで書いたのは、見せつけるためだ。
自分がどんだけ気持ち悪いかをこの日記を盗み見しながら感じてくれ。
どうせまた読んでまた何も言わないのだろう。何も言えないよな。こんなこと。
僕は日記をやめない。
自分のしていることの虚しさを自分で気付けばいい。
2012-01-12 : 小説版『適切な距離』 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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プロフィール

tekisetsu

Author:tekisetsu
映画『適切な距離』

2012年9月1日(土)~14日(金)連日21:00~新宿K's cinemaにて公開が決定した大江崇允監督最新映画『適切な距離』公式blog。第7回CO2にてシネアスト大阪市長賞(グランプリ)。主演の内村遥が男優賞受賞。断絶した親子関係。生まれなかった弟と母の幸せな生活。久々のコミュニケーションは、母の嘘の日記だった。

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